日本語の語源を知る 〜目からうろこの語源書〜

プロフィール: 江 副 水 城(えぞえ みずき)、 出身地:熊本県 、学歴: 東京大学 法学部卒 、 趣味:麻雀、言語研究 、著書:『魚名源』 『鳥名源』 『獣名源』 『蟲名源』 『草木名の語源』

【にっぽん】の語源 〜「日本」をニッポンと読む理由〜

我が国の国名は古くは漢字で「倭」と書かれ「和」とも書かれたりしましたが、倭や和はワと読んだとされています。倭は芝那(支那)の魏人が当時の日本を指した他称、和は日本人が自国を指した自称であり倭や和をワと読むのも自称です。

その後、大和、日本などとも書かれるようになり、倭、大和、日本はヤマトとも読まれてきました。「日本」という漢字名称は、古事記には全く見られず、日本書紀においては多見されます。その孝徳紀に

「明神御宇日本天皇(かみにして あめのしたしろしめす やまとのすめらのみこと)」と初見され、岩波文庫日本書紀では、その書中に出てくる「日本」をすべて「やまと」と読んであります。

言海には
①承久三年、安倍氏起請文『にほんコクノカミホトケ、云々』。
②同、暦応三年某月起請文『にほんコクウチノ大小のジンギ』。
③文禄元年五月十八日、山中長俊(秀吉公右筆)ノ消息『にっぽんのテイハウ(帝王)サマ。』
と書かれていることが紹介されています。

西暦で言いますと
①の承久三年は1223年
②の暦応三年は1227年
③の文禄元年は1592年
に相当します。

このことからすると「にほん」の読みは
「やまと」、「にほん」、「にっぽん」と変遷していることになります。何故変遷したのかということですが、それは、その読み方に内包する意味に原因があるのです。

漢語の一音節読みで、倭はウォ、和はホと読みますが、日本語では共にワと読まれてきたことは上述したとおりです。一音節読みで婉はワンと読み「美しい」の意味です。つまり、倭や和をワと読んだのは、婉の多少の訛り読みを転用したものであり、したがって、ワとは「美しい(国)」の意味だったのです。

我が国の名称は倭から和を経過して大和になり、その読みはヤマトといいました。
これは、国の名称を一音節読みから三音節読みに変更したということです。雅はヤ、曼はマン、都はトと読み形容詞で使うときは、いずれも「美しい」の意味です。つまりヤマトとは雅曼都のことであり「美しい(国)」の意味になっています。

「日本」という漢字名称は、上述したように古くからあったのですが、当初はヤマトと読まれていました。上述の承久三年(1223年)は鎌倉時代初期のことですから、この頃には日本を「ニホン」と読むようになっていたようです。一音節読みで寧はニンと読み「平和な」、弘はホンと読み「偉大な」の意味です。つまり、ニホンとは、寧弘の多少の訛り読みであり「平和で偉大な(国)」の意味になっています。

しかしながら、よく考えてみると、この名称では当初の呼称であった、ワやヤマトにおける「美しい」の意味がすっぽり抜け落ちています。そこでそれを補うために、安土・桃山時代頃になってからニッポンの呼称が考案されたのです。一音節読みで、姿はツと読み、形容詞で使うときは「美しい」の意味があり、この字をニホンという名称の途中に差し込みました。鵬はポンと読み弘と同じく「偉大な」の意味があります。つまりニッポンとは、寧姿鵬の多少の訛り読みであり、直訳すると「平和で、美しい、偉大な(国)」の意味になっており、これがニッポンという言葉の語源です。 ここで重要なことは、「にほん」は「にっぽん」の促音読みに見えても、そうではないということです。 以上から、「にっぽん」の呼称こそが、国内での正式名称であり、対外的にも我が国の正式呼称として使用されるべきものと言えます。

 したがって、日本国民は、国名の正式呼称は「ニッポン・Nippon」であると認識し、国際社会に向かってもそのように対処しなければならないことはいうまでもありません。
その場合に、日本国内における通常呼称は、二ホンとニッポンのどちらにすればよいのかという問題がありますが、これは簡単なことです。ヤマト、ニホン、ニッポンの呼称は、歴史上、実在した呼び方ですから、無かったことにしたり取消したりはできないのであり、よいとか悪いとか、使ってよいとか悪いとかの問題ではないのです。社名にせよ、名にせよ、人それぞれに、好きなように使い、好きなように読めばよいということです。

 我が国の呼称について、麻生太郎内閣の平成21年(西暦2009年)の閣議決定では、
「いずれも広く通用しており、どちらかに統一する必要はない」とされました。ここから窺える事は、学者によって、「なぜニッポンと呼ぶべきか」という説明がされていないらしいという事です。我が国の呼称について、今もってニホンとニッポンのどちらかに統一できないという事は、国語・言語学者の学問的な力量不足や秘密主義がその一因であることは疑いありませんが、明治時代以降も延々と続いている、日本語から漢字を混えた日本語をできるだけ早く無くし、英語化していこうとする意図があるとも憶測されます。

 日本語が徐々に崩壊して英語化していくとすれば、その是非はともかくとして、その責任の一端は、20世紀から21世紀にかけての言語・国語学者の、漢語と漢字とを同一視して「漢字は借用語」と称するような誤った言語意識とその意識に基づく研究態度や文部科学省の姿勢にあるのですが、ここから先は大変長くなるので、また別の機会に。